社長の生い立ちと「家づくりへの想い」

昭和53(1978年)年9月18日

札幌市白石区にある病院にて

兼俊家の次男として誕生。


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私が生まれる前から父親が

文房具の販売やクリーニングの受付、プロパンガスの配達など

「兼俊商店」として商売を営んでおり,

母は今でいう、ヤクルトレディーとして毎日仕事をしておりました。



経済的にも貧しい家庭で、2つ上の兄と私は、

小さい頃から贅沢などさせてもらえず、

お菓子とジュースは2週間に一度の土曜日だけ

洋服は中学生まで兄のお下がりで、

当時、流行していた服を着ている友達をうらやましく思う日々。



幼い頃の私は「お調子者」「やんちゃ坊主」で

いたずらをして怒られたり、ふざけて周り笑わせていたりと

活発な幼少期でした。



小学校5年生の時に、小学校にサッカー少年団を作るという話があり、

とりあえずやってみるかと、軽い気持ちでサッカーを始めました。



勉強はあまり出来ませんでしたが、

運動神経だけは良くてすぐに上達していき、

最初は4人だけしかいなかったのですが、

半年ほどで他のチームと試合が出来るほどの人数が集まりました。



この頃の私は完全に井の中の蛙で、

周りはサッカー初心者ばかり

一番はじめに少年団に入り練習していたので、

チームで一番上手でしたので、かなり勘違いをしており。



自信満々で臨んだ初戦、11対0で大敗



今思えば、ここから、何かを真剣に、夢中に取り組んだという事が

始めてだったと思います。



弱小チームだったのは変わりませんが、初戦で大敗したチームにも

1対0で勝つなど、やれば出来る!チームプレーの大切さを

サッカーを通して学びました。



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やんちゃ坊主だった私が挑戦をする事を覚え、勉強が嫌いだったのに、

塾に通ったり、空手を習ったりと、今までとは違う活発な少年になり。



中学校では相変わらずの「お調子者」で

サッカーも地道に続けていたおかげで、

キャプテンにも選ばれて、人生初のモテ期が到来します(笑)



中学生なので「サッカー部のキャプテン」という

肩書だけでモテていたと思いますが・・・。



高校はスポーツ推薦、「特待生」として入学させてもらえました。



ここまでが私の輝かしい栄光の過去です。



当時その高校は全道ベスト8、札幌市の大会では1位2位を常に争う

強豪校。全道から才能がある中学生を集めていましたので、

日々、自分の才能の無さに嘆く毎日。



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そして、コーチとの確執や度重なるケガが原因で苦渋の決断

でしたが、1年生の冬にサッカー部を辞めることになります。



ポッカリと心に穴が開いたように夢中になれる事がなく、

毎日学校に行き、勉強したふりをして、学校が終われば

バイトや遊びに明け暮れていました。



そんな生活にも嫌気がさしていて、

サッカーのために特待生とはいえ、私立高校に行かせてもらい、

申し訳ない気持ちで一杯でしたが、親に「学校を辞めたい」と相談。



母は猛反対、父は学歴なんか関係ないから好きにすればいいと。



色々な話し合いの中、結果、2年生の夏に仕事をしながら通える、

通信制高校に転校する事にしました。



最初に選んだ仕事は鉄筋屋さん、

コンクリートを覆う前の骨組みを作る仕事で、

主にマンション工事をしてました。


なぜこの仕事を選んだかというと、体を動かすのが得意で

一番日給が高かったからです。



仕事を覚えて行く楽しさ、親方に少しずつ認められて、

任せてもらえる喜びで充実した毎日を送っておりましたが、

若気の至りで仕事が終われば

遊び惚けてしまい、次第に勉強もしなくなり、

「別に高校を卒業しなくても、生きていける」というあまえが出て、

結局、通信制高校を辞めてしまいました。



そして、東京に行ってみたいと思い、

19歳の時に東京に行き、寮がある会社を

探し土木作業の仕事や自動車の部品工場と

色々な仕事をして、自動車の免許、

バイクの免許を取り、バイクを購入して

湘南までツーリングと楽しい生活を送っておりました。


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そんな中、母から一本の電話があり「父が危篤」。

脳梗塞で倒れたとの事でした。

すぐに札幌に帰り一週間、看病しましたが、

意識は戻ることがなく、

そのまま帰らぬ人となりました。

一緒にお酒を飲んだ事もないですし、

仕事の話もしてみたかったと

後悔ばかり残る中で、

札幌に帰ることにしました。



父親との約束で「25歳までは好きにしていいが、

それ以降は定職に付き働く事」

という約束は守ろうとして、

23歳の時に「大工」という仕事に出会いました。



大工との出会いは友達の父親でした。

日曜日の休みの日に友達の家に遊びに行った時の事。

玄関先で友達の父親がノミを研いでいました。



私は「何をやっているのですか?」と聞き

ノミを研ぎながら答えてくれました。



「大工道具は大工の命だ!」

「刃物が切れないといい仕事は出来ない」

大工としての誇りを持ち、常にいい家を建てているという

言葉が胸に刺さり、大工になる事を決意しました。


それから、その友達の父親に頼み工務店を紹介してもらい

大工の道がスタートしていきます。


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当時はすでに大工さんが構造体を自分たちで加工して

(墨付けと言います)行くという

時代ではなく、工場にて機械で構造体を作って行く

(プレカット工法)が7割以上を

占めていて、新築で墨付けはあまりありませんでした。



お施主様の事を思えば、間違いなく、

精度や強度を取ってもプレカット工法

の方が良いですが、昔のプライドの高い大工さんには、

「今の若い大工は墨付けも出来ないで~」と

言ってくる大工さんもいます。

家づくりはそこじゃないのにと

いつも思っておりますが・・・。



話を戻して、

当時は階段が出来れば、

一人前だと言われてましたので、

仕事が終わってから段ボールを買い、

家で階段の原寸をおこしては切ってと

練習を繰り返してました。



そして大工見習を始めて3年目の時に、

もっと建築の事を知りたい。

と思い2級建築士の資格を取ろうと

勉強を始めました。



独学では厳しいと思い、専門の学校に日曜日だけ通い猛勉強。

一年に一回の試験なので、一年目で受かりたいと思ってましたが、

結果、2点足りなくて一年目は落ちました。



2年目は絶対に受かる!という意気込みで、

平日は夜中まで勉強をして、飲み会には一切行かず猛勉強した結果

100点満点中98点で合格!

製図の試験も無事合格!

生まれて初めて猛勉強をして、勝ち取った資格がこんなにも

嬉しいとは思いもしなくて、嬉し涙を流したのを今でも忘れません。



大工としての腕も磨かれて来て、「ウチに来ないか?」、

「ウチの仕事をして欲しい」という誘いも増えて、

平成20年に一人親方として「兼俊工務店」を設立しました。



翌年には元請けさんの紹介で妻と出会い結婚、子宝にも恵まれました。


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最初はリフォームの仕事しか貰えなかったのが、

大工さんも一人増え、二人増えで

大手の新築まで頂けるようになり、

手伝いの大工さんも入れて多い時で20人位

いた時もありました。



大手の新築やリフォーム工事をして行く中で、

「私ならこうする」という意見も

話してみたりしてましたが、

当時はまだ大工さんが溢れている時代で、

「変わりは沢山いるんだぞ」という言い方をされた事もありました。



この頃から自分が正しいと思う建物を建てたい。

お施主様と直接話しながら建てたい、

という気持ちが強くなり、「よし!自分が元請けとしてやろう!」

と決意し、平成25年10月に法人化しました。



下請け時代に色々な建築屋さんの仕事をしてましたので、

まず自分が建てたい家を考えていきました。



ところが価格の方が坪60万円以上になり

「誰にでも手の届く価格で、若い世代の方に適正価格では提供できない」

と思い、まず最初にコストの交渉をしていきました。



メーカーに直接価格交渉したり、

協力会社にも粘り強く協力のお願いをしました。




私の目指す家づくりは

「安いだけの住宅」

を建てることではありません。



適正な価格で若い世代の方でも安心して生活できる、

「地震に強く、耐久性の高い家」



そして、

「家族みんながしあわせいっぱいの家づくり」



それを実現するために、

非常に長い時間がかかりましたが、

品質を下げずにお手頃価格な住宅

「ラッ木ー」の商品開発に成功しました。



最初に注文を頂いたのは、協力会社さんの紹介でした。



今まで大工として、きちんと仕事をしてきて、

協力会社さんに仕事を見てもらえていた結果だと、

喜んだのを今でもしっかり覚えています。



平成29年の春まで、

私が大工として建てて、営業、打ち合わせ、現場管理をしていたのですが、

年々、受注棟数が増えて行き、大工仕事が困難になってくる事が

予想できたので、腰袋をおろすことを決断!!



そして今まで自宅兼事務所だったのをやめ、

現在の事務所、

北郷7条7丁目に事務所を建て移転することにもしました。



さらに自然素材にも出会いました。



私の娘(次女)がアトピーをもっていたのもあるのですが、

「もっと建築を通して子供達に出来ることはないか?」を

考えて行くうちに、シックハウス症候群という言葉が目に入りました。



身近にある、カーテンや家具、ダニやほこり、タバコと室内環境にある、

あらゆる物で誰でも、シックハウス症候群になる可能性はあります。


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シックハウス症候群がさらに悪化すると化学物質過敏症という病気になります。



例えば人間は赤ちゃんから大人まで、それぞれがある程度のコップを

持っています。

そして毎日毎日悪い空気を吸うと、

その成分がだんだんコップに溜まっていきます。

コップの容量はその人の体型とかにもよりますが

徐々に徐々に悪い空気が溜まっていって、

ある一定の限界を超えると溢れてしまいます。

そして溢れ続けると化学物質過敏症とかになっていきます。



だからと言ってすべてを無くすことはできません。

近年の家づくりでは工業製品が溢れています。



そこで新たにアトピーやアレルギーのお子様を

お持ちのご家族に向けた住宅を考えていき、



こうして新しい商品「木の心」が一つ増えました。



2018年9月6日3時7分。

最大震度7、北海道胆振東部地震



清田区道路陥没
出典:(一財)消防防災科学センター「災害写真データベース」

震災時の札幌駅



札幌で初となる震度6の地震が

発生しました。


真夜中に突如起きた地震。

普段ちょっとしたことでも

起きない私が飛び起きました。



何が起きているかも分からず

目を覚まして、怖がる子供達を

抱きかかえることしかできず、

自分の無力さを感じたことを今でも

忘れません。



その後に起きた大停電。

携帯電話は使えたので、

信号が停まっていることや地盤沈下、沈没を知り

私が建てたお家や、お客様は大丈夫か?

友達やスタッフは大丈夫か?

一人一人電話をかけて安否確認。



幸い誰一人怪我もなく、私が建築したお家も

何事もないことを知り、信号が停まった中

車を走らせて建築中の現場確認に行きました。



物が散乱していたこと位で一安心。



家や現場、事務所の片付けをしているうちに、

私が住む地域では電気も復旧。



何事もなく普段の生活に戻れましたが、

地域によっては道路が陥没したり

液状化現象で住宅106棟が半壊と

深刻な問題が起きていたこともありました。



自然災害なので、どうしようもできない事も

多々ありますが、工務店なので出来る事も沢山あるはずで、

札幌は地震が少なく地震前までは

気密性能や断熱性能ばかりが注目されていましたが、



お客様から嬉しい一通のメールを頂き



メール画像



もっともっといい家を建てたい!

もっと地震に強い家、何回地震が来ても

耐えられる家を作りたいと気づかせて頂きました。



そこで出会ったのが、

耐震等級3+ダンパー+デザインを

兼ね備えた「HOMA」というお家のラインナップでした。



ダンパー画像



ダンパーを装着の必要性を感じて(詳しくは当社のYoutubeをご覧ください。)、

オプションになりますが、当社のラッ木ー、木の心にも

お客様にお選びいただき、装着できるようにしました。



お施主様から話を聞くと、○○の会社は、最初は安い価格だったのが、

話を進めて行き、○○万円払って仮契約をした後から、あれもこれもと

値段が上がって行き不安になり契約を辞めたという話をよく聞いてました。



「たしかに、進めて行く中で価格がわからない部分もありますよ。」と答えて

いましたが、お客様が知りたいのは、家づくりにかかる全ての総額

なのではないかと、気付き、

入口価格と出口価格をなくし、契約までは無料相談、コミコミ価格の提示をして

分かりやすくしようと考えました。



それと同時に札幌にある金融機関を周り、住宅ローンの事を調べて行きました。



もちろん出会った方が、みんな、カネトシ工務店で建てるわけでは、

ありませんが、

「出会った方には、損をしてもらいたくない!」

私に出来ることは、いい家を建てるのは当たり前ですが、

出会った方に、正しい情報、色々ある金利商品のメリット

デメリットを公平な立場でお伝えする。

「損をしない知識を得ていただく事」

だと思い、月に数回「無料相談会」を実施することにしました。



これらの事が間違っていないと実感出来ることがあります。



定期点検に行った時などで、家づくりをしていた思い出話をし、

感謝されるときや、引渡の時のお施主様ご家族の笑顔を見た時に

いつも実感しております。

世の中は何事も常に変化しています。



家づくりも例外ではありません。



家に対する意識も多様化していると感じますが、



それでも変わっていないこと
私達の想い
「家づくりへの想い」です。



「家づくりを通して家族の笑顔と幸せをつくる」

それが、私達が提供する価値であるという事です。



家を建てることで、そこに暮らす家族の笑顔があふれ、

人生に幸せをプラスできるように願い、

日々学び、新しい技術や知識を積み重ね、

より良いものを提供できるように努力をし続けています。



変わらない想いと変わり続ける時代にあわせた家づくり。



カネトシ工務店は、これからも挑戦しつづける会社です。


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